自称!? あまのじゃくの私。
クリスマスらしからぬ、ただ、
よく読むと、決してあまのじゃくではない!?
投稿をば、いたします。
まぁ、冗談や前置きはさておき、
先日からずっとここで紹介したいと思い、
カバンの中に潜ませていた、靖国神社の会報「靖国674号」
日下公人さんの
「昭和ひとけた生まれが考える英霊のこころ」
からの抜粋です。
目からウロコでした。
* * * * * *
今から私が書くのは英霊に対してではなく、
生き残った私より若い人に対してである。
(ちなみに日下さんは80歳なので、これを見ている人の99%が「若い人」にあたるでしょう)
(中略)
若い人がサイパン島へ新婚旅行へ行って、
日本軍の戦車を背景に写真をとっている風景を論じて
左翼的な先生は「日本はおろかな戦争をしたおろかな国だった」
と、教え、右翼の評論家は「兵士が生命を捧げた武器に腰をかけるとは何事か」
と、慨嘆するが、昭和19年当時の日本人の心を知っている私の感想はまるで違う。
兵士は喜んでいるだろう。
戦車のまわりで大いに遊んであげるのが最大の功徳だ。
(中略)
英霊はそういう幸せな日本を守るために生命を捨てたのであり、
戦後の日本は再度そういう国をつくったのである。
子供や孫の世代がサイパンに新婚旅行にくるようになったのを見て
死に甲斐があったとおもっているはずである。
私より約10年年長の(終戦時25歳)古川潔氏は華南の地を桂林まで転戦した人で、
靖国神社の経理部長をなさっていたが、
あるとき、靖国神社の境内が若い男女の宴会場になっているのを嘆いて、
深夜は境内を閉鎖しようという意見が出たとき断固として反対した。
自分は英霊の気持ちを良く知っている。
誰でもいい何でもいい若い日本人に自分達のことを思い出してほしいのだ。
幸せな若い人を見れば嬉しいのだ。
(中略)
当時のアメリカ兵が日本の子供を見てどう思ったか(中略)
その一「この島の子供はチョコレートを知っている。なぜだろう。日本は文明国らしい」 (筆者独り言「はぁ?」)
その二「子供は食べずに家にもって帰るとは。日本は文明国である」
当時日本の三百市町村は空襲のため瓦礫の山になり子供はハダシだったが、
日本人の教養、礼儀、精神は健在だった。
また、戦死した人の心をうけつぐ心が子供にもあって、それが戦後の復興を実現した。
アメリカの占領政策は日本人の心を改造しようとしたが、これも日本経済の高度成長と
高度工業化の方が先に実現したので失敗に終わった。
戦後六十六年間日本は軽軍備で過ごすことができたが、それは一にも二にも身命を賭して
勇戦敢斗した日本人の底力と気概を外国が知っているからである。
戦後、我々は豊かで住み良くて、世界中から模範と仰がれるような国づくりに成功したが、
そんな日本の成長についても外国の方が日本より良く知っている。
日本人の方が知らない。
(中略)
話を元にもどして、昭和一桁世代が知っている戦争中の日本人の原爆観を書いておこう。
その一、日本が先に発明したらもちろん先に使ったんだからしゃあないな。(略)
その二、(略)焼夷弾より遥に殺傷力のある原爆も武器の一つに過ぎないと分かっていた。
その三、日本陸軍のお偉方はこれで降参する決意を固めることができてホッとしているだろうな。
戦後登場した歴史家が想像するより日本人ははるかに程度が高かった。
と、後世に伝えておきたい。
* * * * * *
今日こうして、かつての敵国の風習である「クリスマス」とかいう、
中東に生まれたお方のお誕生日を、ほとんど国民行事のように
お祝いするという風景は、
ご先祖様達から見れば、非常に微笑ましく、
子孫たちの幸せを願って戦争で散った英霊達から見れば、
誇らしく思えるのかも知れません。
ということで、今日はご先祖様に感謝しながら
幸せを味わい、噛みしめていきましょう。